人が主役の町工場を、
これからも。
代表取締役
松任 雅則
町工場を営む家の長男として生まれ、鉄工団地の大人たちに可愛がられながら(時にどやされながら)育った自分ですが、決して最初から家業を継ぐと決めていたわけではありません。むしろ県外に出たくて、高校卒業後は他県の大手製造業の工場に就職しました。製造業を選んだのは、やはりものづくりが好きだったからだと思います。でもそこで見たものづくりは、自分が見てきたものとはまったく違いました。日々、巨大なラインの中で決められたことを正確にこなすだけ。だんだん、自分がロボットの一部であるかのように感じられてきてしまったんです。そんな時によく思い出していたのは、機械油にまみれながら、製品のごくわずかな歪みを手作業で直していた父の後ろ姿。「やはり帰ろう」。そう思って二十歳の頃にこの地に戻って来ました。以来、父と肩を並べて働いています。
松任鐡工の良いところは、熟練工が多く、ひとつひとつの仕事にこだわりを持って取り組んでいるところ、そして皆のチームワークがとても良いところだと思います。納期遅れがないのも、ひとえに協力して効率よく仕事を進めているからではないかと自負しています。もちろん、小さな町工場としてこれから先の課題は多く、地域の皆さんと手を取り合って、なんとか乗り越えていこうとしている状況です。しかし時代が変わっても、「人が主役の町工場」としての松任鐡工の良さは失わずにいたいと強く願います。経営者として、また一職人として、みんなで一緒にいい汗を流しながら成長する。そして、「あれしよう」「これできる?」「やってみよう」の声がいつも響き渡る町工場をつくっていけたらと思っています。
やりがいは、
一日、一日の中にある。
会長
松任 勲淳
松任鐡工は、今から60年近く前に私と両親が10坪の小屋と一台の旋盤機だけでスタートした町工場です。私自身は終戦の年に生まれ、15歳で職業訓練校に入りました。そこで旋盤を覚え、大手の建機メーカーに勤めてからはより高度な旋盤技術を習得しながら、午後は定時制高校へ。高校を出る頃に、両親と始めたのが松任鐡工です。最初は私の方が旋盤に詳しかったので、私が父に教えることもありました。当時の旋盤、いわば「初号機」ですね。今もまだ現役で工場の奥にあります。少しずつ機械は増やしましたが、一番好きなものを挙げろと言われれば、やはり初号機です。
すごく大きい仕事をとってやろうとか、有名になろうとか、そんなことを考えたことはありません。でも、小さいからと卑屈になったことも、逆にないんです。ただただ毎日、目の前の仕事を一生懸命にやってきただけ。「この部品の寸法がわずかでも狂っていたら、その先で大事故につながる」という緊張感がありますから、常に気を抜かず、自分の目と手先を頼りに微調整を重ねる技術を磨いてきました。この年になると、朝起きて、自分が健康で、仲間たちと働きながら汗をかけること、笑えること、夕方になれば満たされた気持ちで各々が家路につけること、そうしたすべてに感謝したい気持ちになります。やりがいというのは、そんな一日、一日そのものに宿っていると、そう感じています。
ものづくりへの情熱を、
心の底に灯しながら。
寺田 松秀
松任鐡工で働き始めてから、かれこれ10年くらい経ちます。前職は染色関係、というか学校を出てから40年間染色一筋の人生でした。自分が描いた絵に沿って型が作られて、それが布地にプリントされる。その服をみんなが着てくれる。それが嬉しくて、定年までずっと染色。何が言いたいかって、鉄工所で活きるスキルなんて、何ひとつ持っていなかったということです。
その会社を定年して、ブラブラしていても仕方ないから、何かやろうと思った時に「忙しいからうちに来てよ」と声をかけてくれたのが松任鐡工でした。適度な肉体労働は気持ちいいだろうし、細かい作業も好きだし、何より松任さんご一家のことも昔からよく知っていたから二つ返事で入社しました。
今の主な仕事はNCマシンのデータの微調整です。基本的な数値データは社長たちが入力してくれるのですが、いざ試しにモノを置いて機械を動かしてみると、100分の1程度の誤差が出るんです。その誤差をノギスで正確に測り、正しい数値を入力し直すのが私の仕事。最初は難しかったのですが、だんだんできるようになりました。慣れることが大事です。でも大変なことが一つあって、それは年をとると目が悪くなる一方だということ(笑)。己が肉体に打ち勝つ方法を考えながら、日々、仲間たちと楽しく働いています。ゆるい話ばかりしてしまいましたが、でもやはり、先代の勲淳さんはすごいですよ。細かい刃先の欠けにも自分の爪で触って一瞬で気がついちゃう。この会社の根底には、ものづくりへの情熱が確かにあるんだと思います。その想いに共感できる仲間が、これからどんどん増えていってほしいですね。